「コリン」の一周忌にあたって
2021年6月4日「コリン」の一周忌にあたって、能取湖の公園「レイクサイドパーク・のとろ」に「コリン慰霊碑」が建立されました。
これは、「コリン」の名付け親でもあり、最初からずっと「コリン」と親密な関係を築いてきた「石垣洋一」氏が、網走市の協力も得て能取湖が見渡せる公園に建てたものです。それに合わせて「能取湖の自然環境を見守る会」として、「能取湖に棲み人間と親しく交流した野生のベルーガの記録」となる短い動画を制作しましたので、お知らせいたします。
動画は、慰霊碑を訪れた人が、その場で見られるように「QRコード」からも見られる形にしたものです。
皆さんに是非とも見ていただきたいのは、ちょうど真ん中あたりに入っている「コリンの唄」です。「海のカナリア」と呼ばれるベルーガとしては、かなり口数がすくなかった「コリン」ですが、珍しく一人で歌っている姿で(そうとしか見えません!)、画面上に「吹き出し」で歌詞を付けたくなるほどです。野生のベルーガの「声をだしている様子」の映像としては、極めて珍しく貴重なものです。
「コリン」の動画はいろいろ出してきましたが、これは「初公開」です。けっして、出し惜しんでいたわけではありません。実は「コリンの5年間」をまとめるにあたって、撮影した膨大な映像をじっくり見直していた中で発見したもので、なぜか今までまったく気が付かなかったものです。収録は2016年の夏でした。
ベルーガは、仲間と頻繫に鳴きかわすことが知られています。その点「コリン」は独りぼっちだったので、あまり声を発することが無かったのではないかと考えられます。
取材記録を振り返ってみると、2015年の秋、石垣氏の船に初めて寄ってきた時から「コリン」は、ホタテ養殖のロープを手繰り寄せる「シバリ」という器具に一番興味を持ったようで、さかんにつついたり、寄って口を開けたりしていました。動画の「コリンの唄」はちょうど、彼女が「シバリ」にしゃべりかけているようにも見えます。
それが、2016年の6月にはなんと、自分の頭の先で「シバリ」をロープに引っ掛けるようになったのです。石垣氏の作業をまねたとしか思えないのですが、その「モノマネ」が高じて2019年の秋には、水中のロープの先を振りほどき、付いていたオモリを落とすまでになってしまいました。さすがに、そこまで行くと「漁業被害」になりかねません。幸い、そのいたずらは数か所でおさまったのですが、「かわいいー」とか「頭いいなー」とか言っていられない事態で「人間とイルカの交流」については、そこまで考えなくてはならないのかと気付かされた出来事でもあったのです。
「コリン」の遺体を埋葬した後、「人間とイルカの交流」の在り方について、地元の方々に改めてインタビューさせていただいたのですが、様々な意見がありました。
*「ベルーガ観察ツアー」をきっちり立ち上げて「観光」に生かすべきだった
*行政が管理してベルーガにケガさせないようにすべきだった
*漁業の邪魔になるのなら、相手にしないほうが良かったのでは
*出来るだけ無視して、そっとしておくべきだった 等々。
「人間以外の動物」に対する価値観の違いだけ「意見の相違」があり、まさに「ケースバイケース」で「正解」というものは無いのかもしれません。あなたはどう思いますか?
振り返ると、「コリン」との5年間は「奇跡」の連続だった気がします。
そもそも石垣氏が初対面の私たちの話を聞いてくれたことから始まり、瀕死の重傷を負いながらも「自然治癒力」だけで復活したこと、その時、東京の大手旅行会社で既に実施が決まっていた「コリンを見るツアー」を取りやめてもらったこと、水中に張られたロープの結び目を自分一人で解いてしまったこと、最後は、「コリン」の死亡以前に決まっていた取材日程に従って現地に入った時、行方不明になっていた遺体が再び打ちあがり、対面できたこと…本当に何もかも「奇跡」だったとしか言いようがありません。
しかし「水草が多く、スクリューにカバーを付けられない」という能取湖ならではの事情があったにせよ、言ってみれば「想定内」の事故で「コリン」を死なせてしまったことは、やはり悔やまれてなりません。
「野生動物と人間の共生」はどうあるべきか。この考え方は、人間以外の生物の生存権を考慮し始めた近年の産物と言えます。最近よく「熊が市街地に出没」する事件が話題になりますが、長年「ヒグマ」の研究をされている「門崎允昭」博士は「熊の殺処分反対」の立場から「熊の生息地と人間の生活圏は電気柵で分ける」ことを提唱しています。「住み分け」し、「出てきたら殺す」ではなく「出てこないようにして生かす」ことで「熊と人間の共生」を目指す方策と言えます。
一方「離れイルカ」のケースはどうでしょう。こちらは「イルカが人間の生活圏に侵入した」形になる(勿論、海はもともとイルカの生息域ですが…)訳で、海を仕切るのは非現実的です。人間が、生活のための経済活動を制限してまでもイルカを受け入れるかどうか、その辺がポイントになるでしょう。今は「人間とイルカの交流」のケーススタディの時期と言えるのかもしれません。こんなことを言うと「人間が学習している間にたくさんのイルカが死んでしまうだろう」と「ツッコミ」を入れられそうですが、この事では、文筆家の「鈴木邦男」氏から、いつもこんな質問をいただいていました。「太地のイルカは、あそこに行けば危ないと分かっているはずなのに、なぜ毎年行くの?」私は「それはイルカに聞いてください」と言葉を濁していましたが、実のところ「人間がイルカとの共生を本当に考えるまで、自己犠牲をいとわないという彼らの意思ではないか」、としか思えないのです。
「コリン」のような「離れイルカ」は、これから益々増えてくるでしょう。その時、私たちはどう対応したら良いのか。もうすでに、それをのんびり考えている時間はありません。
日本ではようやく、ペットの動物たちが「器物」ではなく「生きている動物」と認められるようになりました。続いて「イルカ」が「食物」ではなく「人間と対等に扱われるべき動物」として広く認知される日がくることを願うばかりです。いずれにしても、そうした「人間側の意識」が「人間とイルカの交流」のあるべき姿を決定づけることは間違いありません。
いつもそれを念頭に「離れイルカ」との付き合いを続けていきたいと、「コリン慰霊碑」に改めて誓いたいと思います。
2021年6月4日
能取湖の自然環境を見守る会
坂野正人